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スキー教師という生き方記事一覧

「岩手県八幡平市」私が生まれ育った場所。※当時は「岩手県岩手郡松尾村」。豪雪地帯であるこの土地での生活は酷く不便だったように思われがちだが、実はそんなこともない。「雲上の楽園」あなたはこの言葉を聞いたことがあるだろうか?今ではすっかり廃墟となったが、当時の最先端技術が集結していた「雲上の楽園」と呼ばれていた町があった。「松尾鉱山」だ。私の父はその「雲上の楽園」で働いていた。松尾鉱山では、主に硫黄が...
私がスキー教師を目指すキッカケとなったのは、高校でのある出会いだ。松尾鉱山にも高校があったが、定時制の高校しかなく定時制ではない高校に行きたかった私は福岡(今で言う二戸)の寮がある高校に入学することにした。その時に寮で同室となったのが、1年後輩である「F」氏だった。部屋にスキーを持ちこみ、色々と手入れをしている彼に「おい、お前スキーやんのか?」と聞くと「えぇ、ちょっとだけ…」なんて会話を交わしたこ...
F氏との圧倒的な差を見せつけられた私が辿り着いた結論はこれは道具のせいだ…というものだった。当時、スキー板を売っていたメーカーで先駆者的存在だったのがYAMAHA。木の板ではなく、グラスファイバーの板が良いに違いない!と思った私はF氏に「この板が良いと思うんだけど…」なんて相談してみたら「えぇ、いいんじゃないですか?」と答えていたのでその言葉を信じて、何とか板を手に入れる方法を考えた。スキー板は当...
冬休みや春休みになると、当然実家に帰ることになる。実家の近くにはリフト付きのスキー場があった。新しいスキー板を手に入れた私は「リフトってどんなものだろう?」と思い、胸の高鳴りを抑えきれずに、初めてリフト付きのスキー場に行く事にした。当時のスキー場には圧雪車なんてものはなく、降れば降りっぱなしのところを滑っていくのだが、これがまた難しい。安全に降りるだけなら何てことないのだが、ちゃんと滑ろうとすれば...
高校を卒業した後すぐに、スキーの道に入った!と言うのであればカッコいいのだが、当時はスキー教師という職業の存在すら知らなった私は、高校の推薦で、ある企業に就職することになる。「研修」という名目で、勉強することでお金が頂けるという非常にありがたいシステムがある大きな会社だった。私の父が重視していたことは「大きな企業で勤めあげ、経済的に安定した生活を送ること」だったので私が就職する会社には大賛成。実際...
自分の人生設計に悩んでいた時、ありとあらゆる本を読んだ。「人生とは?」のような本も読んだし、吉川英治の「宮本武蔵」や司馬遼太郎の 「竜馬がゆく」など歴史上の偉人と言われる人を題材にした本もたくさん読んだ。彼らの生き方に共通する「1つのモノに突き進んでいく」という生き方に触れ「男だったら、こんな生き方がしたい!」と自分を奮い立たせた。彼らの生き方を自分に置き換えて考えてみた時に「好きなことを仕事にし...
スキー教師になると決めて、最初にした事は理論武装だ。宮本武蔵が沢庵和尚の元で2年ぐらいずっと本を読んでいたようにありとあらゆるスキーの本を読み漁った。とにかく色々な人の考え方や技術に触れることを意識した。ところが受け手側の問題で、その努力は意味のないものになってしまう。というのも、何もわからない状態だった私が知識だけを取り入れたところで実を結ぶわけが無かった。1+1が分からない状態なのに因数分解を...
実家に帰ってからやったことは「ひたすら本を読み漁る」こととの他に、もう1つ。フィジカルトレーニングだ。いくら知識を身につけたところで、ちゃんと実践できる身体を作っておかないと裏付けが取れないと考えたからだ。冬になればスキーができる環境が得られることはわかっていたのでいざ冬になった時に最短で1級を取得するための準備を整えていた。言葉で表現するのは簡単だが、この時のフィジカルトレーニングは今思い返して...
少し時系列が前後するが、実家に戻った年はまだ万座スキー学校存在を知らなかった。私が実家に戻った大きな目的の1つは最短でSAJの1級を取得することだった。別に資格を取ることに意義があるとは思っていなかったが対外的な面で、資格は取っておいた方が良いと思っていた。その当時、松尾鉱山では硫黄鉱山だけでなく観光にも力を入れいている部署があり、そこには国体レベルの人たちが働いていた。冬にスキーしかやることが無...
万座スキー学校への1通の手紙を送ったあと私の元に1通の手紙が届いた。私が送った手紙に対する、万座スキー学校からの返答だったのだがそこに書いてあった内容は私を興奮させた。簡単に要約すると、下記のようなことが書いてあった。あなたが望むのであれば、万座スキースクールで一緒に働きませんか?軽い気持ちで送った手紙が、スキー教師になる最大のチャンスを引き寄せ異常なまでに興奮したことを覚えている。完全に渡りに船...
ここで、万座スキー学校について少し話しておきたいと思う。万座スキー学校は元々あった場所なのだが、スキー学校として大きく飛躍したのは黒岩達介氏がオーストリア国立スキー学校から帰ってきて万座スキー学校のトップになってからとなる。スキージャーナルに告知が出た時は黒岩達介さんがトップとなって、2〜3年後の話で私は黒岩さんの元で修行をすることとなる。スキー学校としての飛躍の1つに、SAJからSIAへの登録替...
当時、万座スキー学校の10名程度の募集に対して150人を超えるの若者が全国から名乗りを上げた。中には公務員を辞めてでも加わりたいという人もいてそれほどレベルの高い集まりであることに驚かされたことを覚えている。繰り返し主張させてもらうが、その当時、私はまだ全く何も無い状態であったことは覚えておいて欲しい。もちろん実技と学科のテストが行われ、幸いにして受かったのだが当時の気持ちで言えば「自分のレベルで...
万座スキー学校では多くの人と出会うことになったわけだが、その中でも畑山氏との出会いが最も印象深い。と、言うよりも彼は最も私に影響を与えた人物であり、彼の話を無しにして私のスキー人生を語ることはできない。彼は私と同期で万座スキー学校に来たわけだが、年齢は私より5つ上だ。青森のとある進学校から、関西の有名私立大学にスキー推薦で上がっていった人である。大学を卒業後、某大企業に就職するも恐らく何か物足りな...
畑山氏が持つ逸話を1つ紹介しよう。ある時、NHKのドキュメンタリー番組でオーストリアのトップデモ「フランツ・ラウター」氏の来日に合わせて日本のトップインストラクターを教えるという企画があった。その時、日本の代表の一人として選ばれたのが畑山氏だった。NHKの番組なので、当然全国放送されたわけだがその番組の中で畑山氏は、やってくれるのである。日本の代表として選ばれた人たちの中には藤本進氏や、関健太郎氏...
前回お話しした通り、文字通り万座スキー学校のスターであった畑山氏だが、謎に包まれている部分も多かった。畑山氏はあまり自分のことを話したがらなかったからだ。畑山氏のビジュアル的なイメージをお伝えするために先に情報をお渡ししておこう。当時、私が身長170センチ、体重65キロぐらいだったのだが畑山氏は私より身長が低く、体重が10キロぐらい多いと言うお世辞にも素敵な体型と言えるものではなかった。ただ、スキ...
万座スキー学校でスキーを仕事として初めて2年目。私にも後輩という存在が出来た。この後輩たちも全国から集められ、熱い野望と素晴らしい技術を持ったいた。当然のことだが、初年度は上だけを向いていれば良かったのだが後輩たちが出来てしまった以上、そういうわけにもいかない。すぐ後ろに自分を追いかける後輩たちが大勢いるからだ。…とは言え、私の目標は全く変わっていなかった。同期として万座スキー学校にやってきた全日...
万座スキー学校に来て3年目。相変わらず、毎月のインストラクター同士の競技会に出場していたのであるが遂にその時が訪れたのである。デュアルレースは隣同士で滑る競技ではあるのだが、雪山で斜面が全く同じ状況などあるはずもないため左右のコースで「有利なコース」というのが存在する。ある時の決勝戦。滑るのは私と畑山氏である。コース選択(順番で決まる)で畑山氏は当然、有利なコースを選択した。この時の私の心境として...
初めて畑山氏に実力で勝利した日の夜、勝利の美酒に酔いしれていた私の前に畑山氏が来て、みんなの前でこう言ったのである。おい、小川。・・・俺はお前を初めて認める。みんな、聞いてくれ。俺は…小川には勝てない。こいつはかなり努力している。続くものは小川を抜け。コイツを抜かない限りは通用しないぞ。小川、おめでとう。これからも頑張れよ。この言葉は今でも忘れることは出来ない。そして、この言葉を最後に畑山さんが大...

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